Ⅰ 邪馬台国二元論

平成22年(西暦2010年)は、平城宮遷都1300年目の節目にあたり、奈良市では10月8日、天皇皇后両陛下出席のもとに記念祝典が催された。その他、奈良県内各地の寺社による秘宝、秘仏の特別公開があり、相撲節会(すまいのせちえ)、騎射(うまゆみ)などの古代行事の再現など、さまざまなイベントが行われた。その結果、年間の延べ入場者は、1,740万人に達したそうである。今、多くの人たちが、日本人の歩んできた道、特に、邪馬台国を含めた古代に、関心が向いている証でもあろう。筆者も”倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣(あおかき) 山隠(やまごも)れる 倭しうるはし”と、以前より憧れていたが、きっかけは第1回吉川英治文化賞を受賞し、映画化もされた宮崎康平著の“まぼろしの邪馬台国”を読んでからである。その後、平成23年1月23日(日)、NHKスペシャル、PM9時“邪馬台国を掘る”の番組で、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡が紹介されていた。もともと江戸時代から続く、邪馬台国の畿内大和説と九州説がある。現在も、考古学専門家の多くの方々は畿内説支持派である。その番組でも、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡から、古代中国の神仙思想で、邪気を払い、不老長寿を招くとされる2700ケにも及ぶ桃の種(仙果)と、日本各地の土器、鯛などの魚の骨が発掘され、邪馬台国では、そして、この祭祀を行っていた女性は、卑弥呼ではと紹介していた。
しかし、ヤマト朝廷が成立する前には、畿内大和には出雲系文化圏が、また、九州には北九州を中心とした、それぞれ独立した文化圏があったことは、多くの研究者が認めている。所謂、倭の都、邪馬台国2元論である。この2元論は私の専売特許でなく、九州説支持派は同じ事を考えていると思う。魏志倭人伝の社会での邪馬台国は九州に存在し、その後、徐々に、九州の権勢は薄れて行き、代わりに中央集権的な権力は、畿内大和に移行していった。ヤマト朝廷成立の揺籃期の時期でもある。言いかえれば、宗主国の中国からみた倭の都、邪馬台国は、その後、徐々に九州から畿内大和へと変遷していった。初の実在天皇といわれている、10代崇神(すじん)天皇の頃である。即位年代は不詳である。
その根拠のひとつは、八世紀初頭に書かれた日本書紀の崇神天皇記に、天皇の大叔母である倭迹迹日百襲姫(ヤマトトドヒモモソヒメ)は大変聡明で、未来のことを予言できたとある。また、近くには、卑弥呼の亡くなった時代と重なる箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫が死んで、大市(おおち)に葬る。時の人はこの墓を名付け箸墓(はしはか)というとある。その墓づくりのために、人々が大阪の山の石を、次から次へと、手渡しにして石を運んだとの記述もある。倭はヤマトの、迹迹の迹は、名所名跡の跡に通じ、代々の誉れ高い家の後継者である。日は日嗣の御子であり、百は桃に通じ、襲は世襲の襲で、受け継ぐを意味する。つまり、祭祀を行っていた女性は、この百襲姫であったと思われる。参考までに、宮内庁による箸墓の呼び名は倭迹迹日百襲姫の大市墓である。
実際、奈良県桜井市には三輪山自体をご神体とする大神(おおみわ)神社があり、出雲神話の大国主神(オオクニヌシノミコト)が祀られている。万葉集にも“三輪山を しかも隠すか雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや”と歌われている。現代語に訳すと、何時までも伏し拝みたいその山容が、雲に隠れて見えない、雲よ、心あらば隠さずに見せてほしい、その懐かしいお姿をとなる。飛鳥人が朝夕仰ぎ見ては、神霊の大物(大国)主神に手を合わせていたことが伺わせられる。ヤマト朝廷の成立前には、畿内の大和にも、また、九州地方にもそれぞれ独立し並行した、二本立ての歴史があったと解釈すべきであろう。
専門家が監修しているはずのNHKが、邪馬台国論争について、あたかも、畿内説支持派のごとく放映したのは、大変遺憾なことである。 他の一つは、ヤマト朝廷成立過程の解明に、大変重要な箸墓古墳を含めた、数百にも上るといわれている古墳がいまだに、宮内庁の管理下に置かれてあり、未発掘、未解明なことである。

筆者の邪馬台国九州説は以下の考察である。
素直に魏志倭人伝を読んでみると、
①倭人は帯方郡の東南の、大海の中にあり、山や島により国やまちをつくっている。
②倭の地に出かけてみると、遠く離れた海中の洲島に在り、あるいは海で隔てられ、あるいは陸続きになっていて、島々を巡って行くと、五千余里ほどにもなる。
③倭の男子、子供の別なく、皆顔面と身体にいれずみをしている。古くから倭の水人(あま)は水中にもぐって魚や蛤を捕らえる。
④倭の地は温暖であるため、冬でも夏でも生野菜を食べ、皆はだしで生活している。(氷ははらず、雪は降らない?)。
⑤寿命は“或百年、或八九十年”と長命である。温暖な気候のため、稲などの作付けが二毛作であった?そのため、1年が2歳で計算?
⑥人が死ぬと、埋葬するため遺体を棺に納めるが、墓には棺を納める槨(かく)が無く、棺の上に盛り土をする(甕棺埋葬は北九州が主)。
⑦女王国は北にある国々に対し、特別に伊都国(福岡県前原市、現在糸島市、前原市には怡土と呼ぶ地域があり、平原(ひらばる)遺跡がある)に士卒を置き、諸国を検察させている。その結果、女王国は伊都国の南に位置することになる。
⑧海を航海する時は、渡るとその距離を使い、海岸沿い、湾内の場合は水行と日数を記し、使い分けている。
⑨“女王国東渡海千余里、復有国。皆倭種”とある。国の名前は記載されていない。出雲、吉備、四国、畿内、越(高志)などの国を指すのだろうか。
⑩“参問倭地、周旋可五千余里”とあり、倭の地を一回りして来ると、五千余里とある。九州を一周することであり、倭人伝に登場する国々は、九州の中に全て含まれることになる。
⑪屋久島を中心とした朝鮮半島南部から沖縄本島まで、南北950キロメーターに及ぶ東シナ海沿い、楕円形の中の広大な地域で、縄文時代前期から続く曾畑式土器文化圏があった。また、島々の往来を生業とした、アイランドホッパー(Island Hopper)がいた。まさに、中国本土からみた倭人、倭種、倭族であり、魏志倭人伝のなかの世界でもある(平成22年9月7日NHK(BS3)世界遺産1万年の叙事詩)。