Ⅱ 魏志倭人伝について

著者は西晋の陳寿で、西暦280-290年間に書かれた。西暦220年に後漢がほろび、変わって魏、呉、蜀が並び立つ三国時代となり、この時代の歴史書である“三国志”の中の「魏書」に書かれている東夷伝、倭人の条が“魏志倭人伝”である。その後、魏志倭人伝の解釈にあたり、漢字作成に当たっての音韻、その漢字の読み方(漢音、呉音)、当時の距離や方角などについて、現在に至るまでさまざまな論争が続いている。
冒頭には“倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑、旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国”とあり、現代文に訳すと、倭人は帯方郡の東南の、大海の中にあり、山や島により国やまちをつくっている。もとは百余りの国からなっていて、漢の時代に朝見してきた国もあった。いま、使者や通訳が通ってくるところは30国である。
原文は、約二千字の漢文で書かれてある魏志倭人伝には、魏の支配下にあった朝鮮半島北部の帯方郡の郡都(ソウル近く、ケソンとも言われている)から、邪馬台国までの行程と倭国の国名、官名、人口、風習、風景などが書かれてある。当時の倭は、邪馬台国を中心とした国邑(中国語では囲われた町)の連合が存在し、また、邪馬台国に属さない国も存在していたことが記されている。

1 倭人伝を読んで疑議(あれこれと熟考)すること
その1 邪馬台国畿内説について
①倭人伝には、“自女王国以北其戸数道里可得略戴、其余傍国遠絶不可得詳”とある。この短い文章が邪馬台国への道程、すなわち、畿内説か、九州説かの重要な鍵であると思う。現代文に訳すと、女王国より北にある国々については、その戸数やそこに行く道里をだいたい記載できるが、その他の傍国は遠絶であるため、戸数や道里の詳細を知ることができないとある。九州に上陸した最初の国、末廬国(長崎県松浦、佐賀県の呼子付近や唐津市桜馬場遺跡の説もある)から始まり、伊都国(福岡県前原市、現在糸島市、前原市には怡土と呼ぶ地域があり、平原(ひらばる)遺跡がある)、奴(な)国(福岡市博多区の板付遺跡や春日市岡本の春日丘陵にある須玖(すぐ)岡本遺跡は、奴国の中枢であったとされており、また、福岡平野には那珂川が流れ、那の国と呼ばれていた)、不弥国(福岡県糟屋郡宇美町?)へと続くが、邪馬台国畿内説では、これらの記載を全く無視したことになる。
②方角について、末廬国から”東南陸行五百里至伊都国”とは、出発点から東南に向かって進みなさいとの表現であり、伊都国が東南にあるとは述べていない。もし、東北に向かって進むことになると、湾をまたぐことになる。倭人伝の冒頭にある”倭人在帯方東南大海之中”は、現在のGPSなどの表現を意味する。畿内説では、東北とすべきところを東南としており、倭人伝は90度方角が狂っているとした。また、対馬国と一支国に、”乗船南北市糴”とある。良田なく、船に乗って、九州、または、韓国などで穀物を買い入れたとある。倭人伝の方角は正確である。
③陸行一月とは、投馬国の次に、”南至邪馬台国、女王之所都、水行十日、陸行一月”とあり、距離は書かれていない。宮崎康平は唐時代の10里は約4㎞で、伊都国から”東南至奴国百里”は2泊3日の旅としている。畿内説では、、邪馬台国までの陸行一月の距離は、博多を出発点としても、九州を縦断して薩摩半島を飛び越してしまう距離であることを、反論の一つとしている。しかし、対馬国では”道路如禽鹿径”、末廬国では”草木茂盛行不見前人”とあり、道路網は無いに等しく、そのほか、“其余傍国遠絶不可得詳”とある他の国々を通過するには、それ相当の日数を、その地に留め置かれた(ガイドやポーターの手配に戸惑った)か、または、う回路を探さなければならなかったのでは?
その2 “其余傍国遠絶不可得詳”について
この“其余傍国遠絶不可得詳”とは、どのように解釈するのだろうか。倭人伝に記されている国別順では、九州に上陸した最初の国、末廬国から始まり、奴(な)国を経由して、また、奴国まで戻ってくる形となっている。邪馬台国までは、戸数、役人の官名などが書かれている。その先の諸国については、次有斯(し)馬国、次有己百支(きはくし)国、次有りと続き、はじめの斯(し)馬国から数えて、21番目の次有奴国で終わり、“此女王境界所尽”とある。この“其余傍国遠絶不可得詳”とは、遠くて行き来や交渉がないのか、近くても、倭諸国を含めた所謂、外の世界の、人の出入が厳しく制限されていたのか定かでない。
その3 周旋とは
“参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千余里”とある。倭地を参(まいる)問(おとずれる)するに、海中洲島の上に絶(隔たって)在し、あるいは隔たって、あるいは連なって、周旋すると可(ばかり)五千余里とある。この周旋が島々を巡って行くと訳されている。しかし、当時の船乗りは、沖縄諸島を含めた南西諸島まで、広い知識があり、倭の地を一回りすると訳せないだろうか。アジア地図を見直し、朝鮮半島と九州を比べると、九州は以外に小さな島に見えて来る。即ち、倭の地が九州で、その一周と考えると、倭人伝に登場する国々は、全て九州の中に収まることになる。
その4 狗奴(くな)国について
倭人伝には”旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国“とある。登場順に狗邪韓国(巨済島?)から数えて、30番目の国が狗奴国である。では、30番目に登場する邪馬台国と敵対関係にあった当時の強国、狗奴国も、宗主国の中国に使者や通訳を送っていたのだろうか。そこには、男王の名と、官名も記されている。邪馬台国の“其南有狗奴国、男子為(治める)王、男王卑弥弓呼素不和”とある当時の大国、狗奴国はその後、どのような運命をたどるのだろうか。一説では、邪馬台国諸国を併合し、東征して畿内に達し、ヤマト朝廷を樹立する。古事記には、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)、後の神武天皇が、宮崎県日向(ひむか)の国を発ち、東征の旅に出たとある。この事例では、狗奴国は全国最大級の古墳群があり、宮内庁陵墓に指定されているため、発掘調査が未だにされていない、宮崎県西都市の西都原(さいとばる)古墳群などがあった場所とも考えられる。二説はそのままの体制を維持し、ヤマト朝廷から熊襲(熊本県?)と言われ、11代垂仁天皇と14代仲哀天皇の2代に渉って、征伐の対象となった国である。
その5 卑弥呼と卑弥弓呼の呼び名について
それぞれ、邪馬台国の女王と狗奴国の男王の名前である。卑弥とは正統な王家を継ぐべき人、弓は男の代名詞?呼は称呼の呼で、名付けるである。つまり、女王と男王の単なる固有名詞?もしくは、名前の偶然の一致だろうか。卑は尊卑や野卑の卑で、王家とは正反対の字である。弥は弥栄(いやさか)の弥で、月日を重ねる意味もある。卑を日嗣の日、日の御位(みくらい)の日を使わなかったのは、宗主国からみた蛮族の王と、見下していたためか?もし、女王と男王の単なる固有名詞なら、著者の西晋の陳寿は、それぞれの幼名、個人の呼び名を把握していなかった事になる。
その6 至ると到るの使い分け
至ると到るを漢語林で調べると、至は来る、到着する、およぶとあり、到はいたる(至る)、いたり着くとある。倭人伝で、到るを使用している国は、狗邪韓国と伊都国だけで、他の7国へは至るを使用して区別している。到るは実際に到着した国、至るはおよぶ、着くと区別しており、他の至るの国へは、旅先案内人などによる聞き語りによるものだろうか。もしそうなら、著者の陳寿らの使節一行は、天候不順などによる旅行日数の制限、冬季は船による移動は不可?その他の事情で、正規のルートに従わず、また、上に挙げた二国だけで、邪馬台国まで到着していないことになる。
その7 官名について
官名については、対馬国と一支国(壱岐島)は同じ官名で主が卑狗、副が卑奴母離だが、対馬国は大官とあり、一支国より上位の官職の人がいたことになる。九州本土に初めて上陸した国、末廬国には官名はなく、役人は居なかったのだろうか。伊都国については、主と副の官名が対馬国、一支国とは異なり、二人の副がいた。その他、“自女王国以北置一大率、検察諸国、諸国畏憚此、常治伊都国、国中有如刺史”、とあり、邪馬台国から派遣されていた一大卒がおり、邪馬台国以外の諸国を検察し、諸国は之を畏れ、憚り、まるで中国の刺史(しし)のようであると記されている。この女王国から派遣された一大率(検察官)が、常時伊都国に常駐していたことになる。また、“王遣使詣京都帯方郡、諸韓国及郡使倭国、皆臨津捜露、伝送文書賜之物詣女王、不得差錯”とある。現代文に訳すると、女王が使者を派遣して、洛陽や帯方郡に行かしめる時や、諸韓国や帯方郡の使者が倭の国に来た時にも(現在の出入国管理官の如く)、一大卒は臨津(そのたびごとに)に対応して捜露(臨検)し、女王に送られた文書、献上品など全てに間違いの起こらないようにしている。この記載から、常時、帯方郡や諸韓国との貿易や交流があり、また、文書を理解できる人たちが常駐していた事を伺わせる。また、前述したが、卑弥呼と卑弥弓呼の呼び名の解釈にあたって、単なる女王、男王の意味なら、日本への漢字伝来は、相当早い時期に移入されていたことになる。倭人伝の冒頭にも、”今使訳所通三十国”とある。
その8 伊都国の王について
他の奴国、投馬国、邪馬台国と比べて、戸数(人口)がはるかに少ないのに、世継ぎの王がいた。そして、わざわざ、皆統属女王国と但し書きが付いている。どのように解釈したら良いのだろうか。筆者は、倭人伝の時代よりはるか昔から、伊都国を中心に、対馬国、一支国、末廬国、奴国、不弥国は、邪馬台国王家との繋がりが非常に強い国だったのではと考えている。その結果、卑弥呼の宗(本家)女、壱与(いよ)?臺与(とよ)?(13歳)は伊都国の皇女で、卑弥呼の本家は伊都国だった?そしてまた、建武中元二年(西暦57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、漢の光武帝「漢委奴国王」の金印を印綬するとある奴国の王家の末裔が、伊都国の王であった?
その9 水行と度、渡るについて
帯方郡から狗邪韓国までは、水行が使われている。対馬国へは度(わたる)一海、一支国、末廬国へは渡る、また、“女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種”でも渡るが使われている。そのために、不弥国から“南至投馬国水行二十日”、“南至邪馬台国水行十日”とは、湾内、沿岸沿いに進んだのだろうか。もし、川を舟に乗り変え投馬国、邪馬台国へ水行する場合は、大陸の河と違って、川幅は狭く、流れが速く、大変な労作が必要となる。著者は道路網が未発達な時代、川筋を歩くことも水行に含まれていると思はれるのだが。そのため、一日の行程は川を水行する場合は限定される。その結果、投馬国、邪馬台国は、博多湾に面している奴国に近い、北九州に位置していたことになる。
その10 家、戸について
一支国、不弥国は家が、他の対馬国、末廬国、伊都国、奴国、投馬国、邪馬台国では戸が使われている。最初の狗邪韓国は何も記載がない。家は屋根が、戸は囲いがある家と解釈している人もあるが、筆者は家は、ばらばらに散在している家々が、戸は、ある程度集落的なまとまりがある村の戸数ではないかと思う。
その11 下戸の葬儀について
”大人皆四五婦、下戸或二三婦“とあり、一夫多妻である。また、“喪主哭泣、他人就歌舞飲酒、已葬(すでに葬れば)挙家詣水中(喪主の一家は水中に詣でる)”、“澡浴、以如練沐”とあり、澡はすすぐ、清めるとあり、それは中国における練沐のようである。練沐とは白い喪服を着て、身体や髪を洗うである。大人は甕棺に埋葬されたが、下戸は土葬でなく水葬で、喪主家族は水中に入り、死者の霊と一体化し弔ったのだろうか。
その12 “男子無大小皆黥面文身”について
黥面とは顔に入れ墨をすることであるが、倭の男子は大人、子供の別なく、皆顔面と身体に入れ墨をしているとある。しかし、どの世界でも、子供は入れ墨をしていない。しかし、“朱丹塗其身体、如中国用粉也”とも記されているので、黥面分身は入れ墨でなく、大人も子供も顔や身体に化粧をして、病気や悪霊から身を守ると解釈できそうだが。

2 邪馬台国諸国を比定する要件
倭人伝に書かれている固有名詞は、前述したが、音写を目的とした漢字を用いただけの音表文字である。現在の地名から邪馬台国諸国を特定することは、特定の場所を除いて困難である。大切なことは、倭人伝の時代前後の、推移、流れをつかむことであろう。もちろん、その時代に即した出土品、遺跡の位置、規模、状況の見極めなどが最重要な根拠となる。それらを勘案し、倭人伝の記述から、邪馬台国諸国は船や舟で行ける場所、海岸沿いか、海岸から河を遡上でき、また、河を使った往来が可能な場所が必須条件となる。理由の一つは、当時は馬や牛が居なかったこと、物流に必要な運搬手段は舟が主であることによる。その結果、当時の国同士の接点、交渉、玄関口は舟による往来で行うのが必要条件で、領内通過、領内に迷い込むなどは、侵入者と見なされる。そのような不文律があったのではと考えられる。

参考資料
① まぼろしの邪馬台国、1)白い杖の視点、2)伊都から邪馬台への道、宮崎康平、講談社文庫、2008年
邪馬台国、清張通史1、松本清張、講談社文庫、2010年
九州古代遺跡ガイド、九州遺跡研究会、メイツ出版、2009年
葬られた王朝、梅原 猛、新潮社、2010年
古事記、福永武彦、河出文庫、2010年
日本書紀、福永武彦、河出文庫、2008年

尚、本題は”魏志倭人伝の世界”と題して、平成23年3月号から8月号まで、千葉県医師会雑誌に連載し,抜粋したものです。
最後に、中村学園大学ホームページからの魏志倭人伝を利用するに当たりまして、同大学図書館長、藤田守様はじめ関係諸氏に、この紙上をお借りしまして、厚くお礼申し上げます。また、パソコンから多くの博学の徒が居られるのを知り、また、ウイキペデイアなどから、多くの情報、知識を教えて頂きました。ここに感謝申し上げます。(山﨑震一)